昭和45年6月21日 朝のご理解 (末永信太郎) №45-熊03
御理解第4節
此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって神は世に出たのである。神からも氏子からも、両方からの恩人は此方金光大神である。金光大神の言うことに背かぬよう、よく守って信心せよ。まさかのおりには、天地金乃神というにおよばぬ。金光大神助けてくれと言えばおかげをさずけてやる。
まさかのおりには、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。それには、金光大神の言うことに背かぬよう、よく守って信心せよというのであります。ところが、事実、私どもは金光大神の言うことに背かぬように、よく守って信心していないのです。ね。それでも、やはり、まさかの時には、やはり口をついて出るものは、金光様である。思わず知らず出るのは、金光様である。
金光様・・・。もう、それこそ寝言にまで、金光様が出ておるんです。
私はそれがいいと思うんですね。まあ、それでいいと言うて、その断言するというわけじゃないですけれども。私はいつでもです、どんな場合でも金光様。やっぱりその、金光様が出ればいいと思う。例えば、腹が立って喧嘩をするような時でも、金光様と、私はもう、出ればいいと思うんです。それでおかげ下さると思うんです。金光大神の言うことをね、背かぬように、よく守って信心せよ、と。ね。まさかのおりには、天地金乃神と言うに及ばぬ、金光大神助けてくれ、と。
もう、いつもがです、金光大神助けて下さいという内容がですね、私はあればいいと思うんです。とてもとても、金光大神が仰ること、よく守って信心せよなんて、とてもとても出けるこっじゃない。私はそう思う。ね。ですから、私どもがいつでも、いわゆる、金光様。寝ても覚めても、金光様。それで、やはり助けて下さるのであり、おかげを下さるんだと私は思う。
だから、私はそれでいいと思う。問題は、いつどのような場合でも、はたして、その金光様が出るか否かということだと思う。金光様が出るまでが、私がやっぱり、信心の一人前だと思うですね。いつ、どんな場合でも、金光様というのが出る、と。ね。
金光大神は、そのような、私は体得を、体得というか、おかげを受けておられるお方であったということを思います。神からも氏子からも、両方からの恩人。神からも氏子からも、両方からの恩人、と。そこのところが、私どもは、ね、そこからの信心は、また、これは別だと思う。ね。
まあ、それを言い返るなら、どういうことになりましょうか。ここでは、金光大神と唱える前に、親先生と唱えると、こう言う。また、親先生と言うた方が実感があるんだ、と。また、おかげを受けるんだという風にも言われます。ね。親先生と金光大神。ね。親先生と金光大神からの恩人だと、私は言われることになるということはね、これは、もう、おかげの世界ではなくて、お徳の世界だと思うね。
私達は、まあまあ、これでいい。金光大神の言われることに背かぬように、よく守って信心せよ、と。まさかのおりには、天地金乃神と言うに及ばぬ。金光大神助けてくれと言えば、おかげを授けてやると、こう仰せられる。ですから、私はどんな場合でもです、なら、金光大神の言われることに背かぬようにといったような信心は、よう出来やしませんけれど。ね。
それでも、いつでも、どんな場合でも金光大神とすがられるだけの、言うならば金光大神の信心に帰依し奉っておる、と。ね。金光大神の言われることは、よう背いてもおるし、または守りも出けない。けれども、やはり、金光大神。口をついて出る時には、金光大神。ね。だから、それでいいと、こう。今日私が、ね。だから、両方からの恩人は、此方金光大神であるという風に言われます。
その辺のところはですね、もう、これは一段おかげを、一段のおかげというかね、お徳の世界というかね。そういうおかげを頂かせてもらえれる、(だから?)、もう一つ、そういう意味がある。もう、最近、私は何日前の御理解でしたかね。親先生のおかげでという、その、まいっちょ向こうに、神様のおかげだと言えれるようになったらと言うですけれども。とても、とてもとても、そんなことは出来そうにないですね。
まあ、昨日辺りの御理解を頂きますと、天地の大徳、と。天地の大徳を悟らせてもらう。そこに、天地の大恩がわかる。ね。とてもとても、これは大抵な、大変なことだと、こう思う。けれども、私どもはいつもが、その、やはりおかげを受けなければならないのでございますから、やはり、そういう、その、まあ、大変なところを悟れなくてもです、やはり金光様、金光大神という、その、金光大神にすがらせて頂けれる信心が、まあ、出来れば、まあまあ、いいとこういう訳ですね。
けれども、それから、あの、もういっちょ飛躍した信心はですね、氏子からも金光大神からも両方からの恩人、と。が、というところですね。いわゆる、神様を抜きにしたところ。金光大神と親先生の間ですね。この辺の、まあ、私はだいたい信心が出けたら、まあ、おかげを頂くし、まあ、よい信心ということになるんじゃないでしょうかね。実は私はあの、昨夜、菊栄会でございました。
菊栄会の方達という訳じゃなかろう、私を含めてのことでございましょうけれども、御理解がね、神様がね、(おき?)を長くして待っておられる、その神様の願いというか、期待というもの。神様がここまで、ここまでは来てくれよと、ここまでは伸びてくれよと、手を差し伸べておられる。しかも、それは気ながにまっておられる。その期待とは、その期待に添わせて頂こう、と。
その神様のお心にお応え申し上げれる信心とは、どういう信心かというようなことについて、まあ、昨日頂いたんです。これは、菊栄会の方達だけではない、私を含めてそうなのだ。ね。ということを、まあ、細々とした一つの例を持って下さった。それはもう、ああいう信心が出け、夕べ頂いたような信心が出けたら、やはりお徳を受けましょうけれどね、なかなか出けません。
皆さんでもやはり、神様が、もう本当に気を長くしてから、その、待ってござる信心というものを、それぞれに感じとっておられる方があるかも知れません。それにお応え出来る信心とは、これだと思うけれども、出来ないでおるというところがあるかも知れません。けれどもね、まあ、今日の御理解を頂きますと、金光大神助けてくれと言えば、おかげを授けてやる、と。それは、金光大神の言うことに背かぬようにということであるけれども、金光大神の教えて下さることに背かぬようなんていう信心は、とてもとても、至難中の至難である。そこでね、まあ、氏子と、金光大神と天地の親神様ではなくて、金光大神と親先生の仲。
ね、金光大神と、その親先生の仲。ね。昨夜、菊栄会の方達が済まわれたのが、もう十二時すぎでした。私はそれまで待っとった。待っておりましたら、あの、おそばが出来ておった、何かしておってから、おそば頂きよったら、まあ、おそば魚で、そこにすぐ手の届くところに焼酎がありましたんですど。焼酎を、私は焼酎で酔うたことがないんです。ところが、私昨日ばっかりは焼酎で酔うとる。
焼酎を飲んでからですね、もう、あの机の前に頭をフッとこう、打ち付けたのが最後、覚えなかったです。もう、私は焼酎で酔うた、まあ、その、お焼酎をたくさん飲んだこともないからですけれども。酔うたことなかったけれど、あの、公子さんが、あの、もう、3時でございますと言うて来たのと、頭をつけたのが一緒でした。もう、それっきり覚えなかった。ね。
それからですね、もう、3時半にはここに出てきますからね、言うならば三十分間のあいだにですね、まあ、夢現にに私が感じたことです。もう、夢現に感じておったのは、誰かが私の足を揉んでおった。電気は、もう消えておった。どうも、それは正義さんらしい。枕元に(のっかかると?)、4~5尺ぐらい離れたところに誰かがおる。それは、文男さんと感じた。文男さんが後ろに、どうも高橋さんがおると感じたんです。ね。そしてね、私はもう、本当にしみじみ感じたことはですね、今、他のことは全然わからなかったけれども、この人達は三人、足元には正義さんがおって、枕元には文男さんがおって、その後ろには高橋さんがおると思うたらね、もう、このまま死んだっちゃよかなあ、といったような感じがしたんですよ。
そしたらね、もう、その朦朧とした、その、頭の中にね、もう、とにかく、有り難いなというものだけしかなかった。私は、今日一時間の御祈念をどんなにして御祈念したか覚えないぐらいに、実は酔うとったんです。今も、まだ少し残っておる。私はもう焼酎で酔うたことは初めてだけれどです、そして、今日これを開かせて頂いたらね、金光大神助けてくれと言えば、おかげは授けてやるというところだけを頂いた。
金光大神、金光様というところですね。金光大神、助けてくれと言えば助けてやる。いわゆる、金光大神の言うことに背かぬようにというところが、出てこなかったんです。ね。ですから、私は今日は、皆さんに聞いて頂いておることはですね、その、もう、本当に難しいことはいらんけれども、金光大神がもう私と一体になっておられるということ。いかに金光大神がね、私と金光大神が一緒に、いわゆる、神われと共にありということは、天地の親神様といったようなものではなくてね、金光大神が私と共にあるということだと思うた。そして、次に考えたことはですね、天地の親神様と金光大神の相中というのじゃなくて、金光大神と親先生の相中です。と夕べ、あんたどんが、信心が、もうこの頃なっとらんからと言うて、ずいぶん厳しいことを、その後にもまた、あの人達が会合しておる時に行って申しましたけれどもね。
もう、あの、例えば私がこういう時に枕元におってくれるなら、私の足元におってくれるならね、もう、助かるという、そんな感じがしたです。いわゆる、親先生とですね、親先生と金光大神の相中におるという感じですよね。私は金光様の御信心とは、やっぱ、もうそれだと思うですね。口を開けば天地の親神様とは言わんですもんね。やっぱり金光様でしょうが。だから、もう、金光様でいい、と。天地の親神様、私は昨日は、天地の大徳なんてん、大変なことを申しましたけれどもですね。
もう、そういうことは分からなくてもいい。もう、寝ても覚めても、金光様が出て来るなら。ね。その金光様を分からせて下さった親先生があなた方の心の中にあるならば。ね。言うならば、足元、枕元んところに、その、親先生の枕元んところにあるならば。ね。それで、親先生が助かってござる。また、その枕元におる、足元におる者は、もう助かる、と。
私はそんな風に、まあ、感じたんですけれど。今日は、後からこのことを、また、いや、素面になってから聞かせて頂いたら、違うかも知れません。今日、私ちっと酔うとりますからね。ひょっとすると、無茶かも知れません。私、控えから、もう四時にあそこを末永さんが開けてくれます。どんなにして出たか覚えんですもん、実際。それから、四時から五時までの御祈念を、やっぱりきついち言うちから、ここへ座ったら、やっぱ、ちょうど五時でした。
だから、一時間、御祈念をしておることだけは間違いない。いや、眠っとったかも知れません。ね。けれども、その中にあるものはね、天地の親神様じゃなかった。ただ、金光様あるのみだったと、自分で思います。霊神様の前でも、やはり金光大神様だったと思います。ね。ですからね、皆さんどんな場合でもです、いつでも、例えば、金光大神の言うことに背かぬようにと仰るけど、背いてもです、背いてというか、守りは出けなくてもです、いつでも、私は金光様が出るだけの金光様を自分の、言うなら心の中に頂いておるならばですね、間違いなくおかげを受けられるなということはです、私がご神前で一時間、言うならば、私がやはり、いつものように、私は、今日は酔うていませんよと言やあ、酔うておらんで済むようなおかげを下さってあるということです。ね。
ですから、その、んなら、足元枕元におるならば、だから、そのままおかげが受けられると、こう。金光様はいつもね、私どもと共にありたいと、まあ、言うならば思し召しておられるという感じです。ね。神われと共にありではなくて、金光大神、いつもわれと共にあるということなんです。ね。それで、なら、金光大神の教えて下さることを守っておるとも思われないけれどもです、その、私は一途なものがあるならば、おかげを受けるということである。ね。
問題は、金光大神の言うことに背かぬよう、よく守って信心せよと。だから、よく守らなくてもです、まさかのおりには、天地金乃神と言うにおよばん。金光大神助けてくれと言えばおかげを授けて。今日はその、金光大神助けてくれと言えば、おかげを授けてやるというところだけを頂いたところから、まあ、昨日から今日の、私の醜態と言やあ醜態でしょうけれども。その醜態の中にね、感じ取らせて頂いたことは、もう、金光大神がわれと共にあるという信心を頂くことが、金光教の信心だと思います。ね。
最近、私が世界の市場に出させて頂くということ。ね。ここになって来ると、やはりその、金光大神の教えて下さったことを守らなければ、和賀心が生まれない。昨夜、私、御理解の時にも、私は厳しい、まあ、菊栄会の者が胸にピンピン響くような感じだったと思うんですけれども。また、それが言い足らなかったような思いがしましたから、また、あの人達が会議しとるところで、行って一くさり話させて頂いた。ね。
そしたら、会長の正義さんがこういうことを言うんです。先生、私どもは今、親先生は世界の市場に出させてもらおうと言われるけれども、とても、そげなことは出来んから、せめて九州、九州中の、九州の市場に出させてもらえる信心ぐらいはさせてもらわにゃんと言うて、まあ、共励しよるとこでしたと、こういう訳なんです。ははあ、なるほど。せめて九州、ね、九州の者だけぐらいは分からせてもらえれる信心。ね。というのは、私は、金光大神と親先生だけが、あれは九州だけなら十分通ると思うです。ね。
昨日も若先生が言うておりました。今度、大阪から東京へ行ってまいりまいてから、ある教会の教会長先生が言うておられることは、どうも、九州の信心は、この、陰気臭いと、こう言われた。大阪辺りの信心は陽気だ、と。だから、陽気だけが良いのじゃないけれどもです、その、陽気と陰気が一つにならなければ、ほんなこっじゃないといったようなことを言われた、ということを聞いてですね。なるほど、本当にそうかも知れないなと、私は思うた。それがどういうことかと言うとですね、九州の信心はね、いわゆる、只今私が申しますような、いわゆる、金光大神ということは、そのまま親先生ということだけに終わっておる。
親教会手続きということだけに終わっておる。親教会は今、頂かせておるけれども、その出社というものは、もう、それにちじこまっとる。そういうようなものを、九州の信心に感じる、とこう言うわけ。だから、今日、私が申しましたのは、九州の信心を申しましたような感じが致します。ね。
ですから、私どもが、いよいよ、やはりこれを世界の市場に出そうということになるとです、これは、金光大神だけじゃいかん、親先生だけじゃいかん。やはり、天地金乃神様のいわば心に交流するもの。それは、やはり教えを行じて生まれてくる和賀心。その、この和賀心ならば、これは、世界の市場に出せると言うんです。ね。今日私は、言うなら正義さん曰く、ね。九州の市場に出せれる信心を頂きたい。親先生の枕元足元にいつもある信心。そこで、親先生が助かってる。そこに、枕元にある信者が助かっておる。足元におる信者が助かっておる。もう、金光大神の言われることには、背いても、おかげを受けておる。
そういうようなことを、今日は何というですかね。まあ、少し、いつもから申しますと、無茶苦茶な御理解のようでございましたけれどもです。ね。本当に、例えば九州に出せれる信心。これだけでも、ここまででも、だいたいは、んなら、大変見やすい信心とは思われない。ね。
親先生といつも交流しておる、いつも通うておる。ね。そういう信心なんです。ですから、私が日頃申しております、まあ、信心の足がかりとしてです、そういうところを頂いて。そして、なおかつ、神様が気を長うして、ね、気長に気長に待っておって下さる、私どもに期待しておって下さる信心。そういう信心をです、ね、私どもは、どういう信心を持ってお応えするかということは、もう、その他であります。
ね、金光大神の言うことを背むいてもです、金光大神助けて下さいというほどしに、まさかの時に言えれる信心を頂いておるということを今日は申しましたが。ね。だから、それだけでは、しかしね、世界の市場には出せない。ね。まあ、言うなら九州の市場ぐらいには出せれる。
合楽の信心は、何とはなしに陰気臭いとか、陽気とかという言葉を使うならね、その中流を行っておるような感じがするんですよ。言うなら、その陽気でもない。というて、なら、陰気でもない。ね。言うなら、その和賀心時代という、私が最近申します、それに入って行きよい、その気になれば入って行けれる、私は内容を持っておると思うんです。ね。
それは、皆さんも感じとっておられることであろうと思いますけれども。だから、そういうかすかなところからでもですね、やはり、そこを目指さなければならないことは事実です。けれども、皆さんどうぞ、私の枕元にあって下さる信心、私の足元におって下さる信心。そこに、んなら、おる者も、おられる者も、何とはなしに有り難い交流を感じとっておれれるというところの信心が、まず基礎になってですね、その、世界に出せれるほどしの信心を、いよいよ身につけて頂きたいという風に思います。どうぞ。